小説 /「いま、会いにゆきます」~ やさしくて、やわらかな想像の世界へ・・・ゆったりと時は流れて

本が発行された当時は

小説「いま、会いにゆきます」(作:市川いちかわ拓司たくじさん、2003年)の単行本を読み終えた。

この単行本は、十数年前、本の買い取りショップで見かけ、立派な装丁そうていと、それとは不釣り合いな価格を見て、思わず衝動しょうどう買いして読んだ本だ。

「いま、会いにゆきます」については、この本が発行された2003年当時は、この本の存在も知らず、また、映画化(2004年)されていたことも知らず、テレビドラマ化(2005年)された番組をテレビで2、3回見たことがある程度の知識だった。

しばしの休息の後

2020年の夏、自分の「本置き場」にたてかけてあった「いま、会いにゆきます」を見つけた。

そして、その物語の内容をあまり覚えていないことが気になった。

そこで、この本を読み始めたのだが、読んでいる途中、「いま、会いにゆきます」が映画化された時の主演俳優さんが亡くなられたことが報道され、しばらく本を読むのをやめていた。(こういうできごとに自分はとても弱いので、しばしの休息をもらったつもりです)

しかし、やはり物語の内容が気になり、もう一度最初から読み始めた。

「物語」と「物語の中の物語」の始まり

本の中の語り手である「ぼく」、秋穂巧(あいお・たくみ)さんは29才のシングルファーザー。

佑司(ゆうじ)さんという6才になる男の子・小学校1年生のお父さんだ。

この物語は、つぎのような1文から始まる。

みおが死んだとき、ぼくはこんなふうに考えていた。

また、「ぼく」(秋穂巧さん)は、この物語の中で小説を書く。

「物語の中の物語」であるこの小説も、同じ1文から始まる。

「澪が死んだとき、ぼくはこんなふうに考えていた―」

澪(みお)さんというのは、巧さんの妻で、佑司さんの母。

1年前に病気で亡くなっている。

帰ってきた澪さん

その澪さんは、亡くなる前に、「雨の季節になったら、二人がどんなふうに暮らしているのか、きっと確かめに戻ってくるから」と約束する。

そして、その約束通り、亡くなった1年後に巧さんと佑司さんの前に現れる。

しかし、澪さんは過去の記憶をなくしていた。

わたしの幸せな時間

「ぼく」は、記憶をなくした澪さんに、二人(巧さん、澪さん)の出会いから話を聞かせる。

この話が、今回、本を読みなおしたわたしには、すごく印象に残った。

わたしは、澪さんがやがて亡くなってしまうことも忘れ、二人が出会い、それが恋愛に発展し、結婚に至るまでの「ぼく」の話(「ぼく」が澪さんに聞かせた話)をじっくりと読んだ。

時間をかけて、ゆっくりとかれ合っていく二人の話は、読者であるわたしにも幸せな時間を与えてくれた。

高校の同級生

二人は、高校の同級生である。

そのことが、「ぼく」の話では、こう表現されている。

とにかく、そんなきみと、ぼくは15の春に出会ったんだ。
・・・
それから3年間、毎年クラス替えはあったけど、ぼくらはいつも同じクラス、同じ班、ぼくはきみの右隣か左隣か、あるいはすぐ後ろの席に座っていた。だから、一日の多くの時間を、ぼくらは半径1mの小さな円の中に一緒に入って過ごしていたことになる。

高校時代の澪さん

「ぼく」の話の中で、高校時代の澪さんのことが出てくる。

澪さんのことで、わたしが気に入っている話は、つぎのようなものだ。

 

ベリーショートの髪で、銀色のメタルフレームの眼鏡をかけていた澪さん。

それは、この年頃の女の子なら、こう言っているも同然だった。

『私は男の子にはまったく興味がないの。だから、ほっといて』

 

きみ(澪さんのこと)はあらゆる意味で模範的生徒だった。

すばらしい。

それにもかかわらず、きみが成績上位者の常連でなかったという事実は、微笑ましい注釈だ。きみは天才ではなく、秀才でもなく、たんなる真面目な努力家だった。要領よく振る舞うことのできない正直者だった。きみが快くノートを貸してあげていたまわりの人間のほうが、きみよりもいい成績をとることはよくあることだった。ノートは端正な文字で、とても読みやすくまとめられていた。おかげでぼくもずいぶん助けられた。
・・・
人より時間がかかっても、堅実に進む道をきみはいつも選んでいたー。

これらの話は、わたしにも思い当たるところがあり、自分のことを言われているようで少し恥ずかしかったが、「ぼく」の愛情あふれる表現に救われたような気持ちになった。

また、これらの話は、わたしが澪さんに親しみを持つには十分なエピソードだった。

わたしは、このあたりから、「ぼく」の話に登場する澪さんの言葉、心の動きに注目して本を読み進めることになる。

※ 初めてこの本を読んだときは、確か、「ぼく」の話に登場する佑司さん(自分のせいでママが亡くなったと思っている)に感情移入しながら読んだ記憶がよみがえってきた。

二人の出発点

『きみの隣はいごごちがよかったです。ありがとう』

これは、高校の卒業式が終わった後、澪さんから「これに、何か言葉を書いてほしいの」とサイン帳を差し出されたときに書いた「ぼく」の言葉だ。(「ぼく」にサインを求めたのは、澪さんだけだった)

この言葉に対するきみの回答はこんなだった。

「私もあなたの隣はいごごちよく感じていたわ。ありがとう」

そして、ぼくらは別れた。

このサイン帳のやり取りが、二人のその後の出発点となる。

すてきな表現となって

ときには勢いよく、ときには歩みを止めながら、永遠に続いていくかような「ぼく」の話。

わたしは、そんな「ぼく」の話にしっかりと「体温」を感じた。

 

「ぼくの純粋な気持ち」に支えられながら、さまざまなエピソードが、温かく、すてきな表現となって、わたしの心の中に届けられる。

二人が高校を卒業した後に再会したときのこの表現も好きだ。

きみは、なんだかすごく女の子みたいだった。コーヒースプーンの精霊ではなく、温かい肌といいにおいのする年頃の女性だった。

『私は男の子にはまったく興味がないの。だから、ほっといて』なんて、ひとことも言ってなかった。

『私を見て、そして好きになって』

そう言われているような気がした。

ぼくは根が単純で、何事も目の前にあるものをそのままみにする人間だったので、きみが放つサインをそのまま受諾した。

『わかりました。きみを好きになるよ』

再び悲しい別れが

「ぼく」の体に「不具合」が起こり、二人の恋愛はピンチを迎えるが、やがて二人は結婚、「イングランドの王子様」と形容される佑司さんも生まれ、幸せな生活を送る。

澪さんは亡くなってしまうのだが、最初に紹介したように、1年後の雨の季節に戻ってくる。

 

ごはんを食べ、服を着替え、耳掃除をしてもらい、公園へ散歩に行く・・・そんな、ひかえめで、どこにでもあるような家族の日常生活。

しかし、季節は変わり、再び悲しい別れの日がやってくる。

 

わずか6才の佑司さんにも容赦ようしゃなく訪れた二度目の別れ・・・。

一度は、時の流れを巻き戻した家族に、再び訪れた悲しみ・・・。

「いま、会いにゆきます」

本のタイトルになった「いま、会いにゆきます」という言葉は、思いがけない場面で登場する。

本の中でこの場面を目にしたとき、わたしは再び、澪さんが亡くなったことを忘れた。

そして、「巧さん、澪さん、佑司さんの3人は、時空を超えながら、これからも一緒に暮らし続けていくのだろう」と思った。

 

本を読んでいる間、ゆったりと時が流れ、やさしくて、やわらかな想像の世界に触れることができた。

読書の魅力をあらためて肌で感じた。