「江夏の21球」、わたしの記憶 ~ 1979プロ野球日本シリーズ第7戦9回裏の攻防
プロ野球日本シリーズの名勝負
江夏さん本人がゲストに
2018年10月28日昼過ぎ、NHKテレビで「あの日 あのとき あの番組『日本シリーズ屈指の名勝負“江夏の21球”』」を見た。
森田美由紀アナウンサーの番組内容紹介後、江夏豊さん本人がゲストとしてスタジオに来ていることがわかり驚いた。
江夏さん本人を見るのは本当に久しぶりだった。
もう一人のゲスト大野豊さん(野球解説者、元広島カープ投手)の話が終わり、いよいよ「あの番組」が始まった。
「江夏の21球」の舞台
広島カープ対近鉄バファローズの対戦となった1979年のプロ野球日本シリーズ。
このシリーズは、両チーム3勝ずつで第7戦まで縺れた。
1979年11月4日に行われた第7戦は、勝ったチームが優勝という大一番。
しかも、どちらのチームが勝っても、初の日本シリーズ制覇。
試合は、得点4対3、広島カープ1点リードで9回裏を迎える。
マウンドには、広島カープの江夏豊投手。
これで「江夏の21球」の舞台が整った。
日本シリーズ最終戦、最終回、9回裏、26分49秒の攻防、これが球史にその名を刻む名勝負となる。
山際淳司さんのノンフィクション
「江夏の21球」は、この9回裏の攻防を、選手、関係者への入念な取材で描いた山際淳司さんのスポーツノンフィクションである。
作者の山際さんは、ノンフィクション作家で、NHKサンデースポーツのキャスターも務めていたが、1995年46歳の若さで急逝した。
「江夏の21球」は、1980年に雑誌に発表された後、話題となり、後に文庫本も出版されている。
活字だった「江夏の21球」が、ドキュメンタリーとして初めて映像化されたのが、1983年1月24日に放送された「NHK特集 スポーツドキュメント 江夏の21球」、今回放送された「あの番組」である。
リアルタイムでテレビ観戦
実は、わたしは、この試合をリアルタイムでテレビ観戦している。
学生時代、当時、間借りしていた部屋で1人で見たのを記憶している。
また、ドキュメンタリーもしっかりと見ており、それぞれのプレーの裏側に潜む人間心理の1つ1つに、とても驚き、感動した覚えがある。
しかし、記憶は薄れていくものだ。
今回の番組を見て、自分の記憶のあいまいさをつくづく感じさせられた。
「記憶」を整理し直したこと
今回の番組を見て、わたしの記憶が間違っていた部分を羅列してみる。
球場も勘違いしていた
①ドキュメンタリーの解説を野村克也さんがしていたこと。
番組に解説者がいたことすら忘れていた。
この野村さんの解説がとても深い。
②当日は、試合中、雨が降っていたこと。
ドキュメンタリーの中で、時々流れるアナウンサーの実況放送音声は、当日ラジオ放送を担当していた島村俊治さん(NHKの名スポーツアナウンサー)の声の引用だった。
ラジオなので、天候の描写も細かい。
③場所が、大阪球場だったこと。
スコアボードの形状の記憶から、広島市民球場だと思っていた。
広島市民球場だと、広島のホームゲームなので、広島の後攻めとなり、負けている近鉄は9回表が最後の攻撃となる。
9回裏に広島の攻撃があるので、9回表に近鉄が逆転しても「サヨナラ勝ち」にはならない。
つまり、この試合の「ドラマ性」も薄くなる。
そんな当たり前のことに、今回気づいた。
④江夏投手は、何と7回1アウトからの登板だったこと。
抑えの切り札として、当然、9回から登板し、この21球でゲームを終えたと思っていた。
⑤9回の先頭打者として打席に入った近鉄の羽田選手が初球をヒットにしたこと。
先頭打者が初球を打って、簡単に凡退していたら、このようなドラマにならなかったかもしれない。
江夏さんが振り返っているように、1点差で負けている9回に、先頭打者が初球を打つなんて考えられない。
何気なく投じられた初球を見事に弾き返した羽田選手。
運は、近鉄に傾いた。
⑥羽田選手の代走、藤瀬選手が、次打者アーノルド選手のとき、2塁へ盗塁をしたこと。
そして、広島の水沼捕手の2塁への送球がワンバウンドになって外野まで転がり、藤瀬選手が3塁へ進んだこと。
わたしには、盗塁の記憶は全くなかった。
※藤瀬選手の盗塁は、アーノルド選手がヒットエンドランのサインを見落としたために生じたもので、タイミングは完全にアウト(走者も捕手も同意見)だったそうだ。
盗塁がアウトになっていれば、1アウトランナーなしになる。
ここにも近鉄の運を感じる。
⑦藤瀬選手が3塁へ到達し、ノーアウト3塁となった後、打者アーノルド選手は四球を選ぶ。
近鉄ベンチは、アーノルド選手に代わり、代走吹石選手を起用する。
ベンチは、すでに逆転に向けて動き出した。
次打者平野選手のとき、吹石選手が盗塁し、ノーアウト2塁、3塁となる。
広島ベンチは、平野選手を敬遠して満塁策をとる。
近鉄は、ノーアウト満塁の大チャンスとなる。
このあたりの両チームベンチの駆け引きは、ほとんど記憶にない。
しかし、この後の展開は、わたしの記憶に近いものとなる。
最後の記憶違いは
ノーアウト満塁。
同点、あるいは逆転サヨナラ勝ちもあり得る絶好のチャンスが近鉄に転がりこんで来た。
ここで、佐々木選手が登場するが、佐々木選手が代打だったことは、わたしの最後の記憶違い。
佐々木選手は、若手の強打者としてのイメージが強く、当然先発メンバーだと思っていた。
その佐々木選手が三振する。
佐々木選手への全投球(6球)に対する野村さんの解説がすごかった。
1球1球に意味がある野球の奥深さを教えてもらった。
もちろん、三振を奪った江夏投手の投球技術もすばらしい。
野球がドラマに見えた瞬間
19球目にドラマが・・・
近鉄の攻撃は、ノーアウト満塁から1アウト満塁に変わる。
次打者の石渡選手は、初球のストライクを見逃す。
そして、2球目。
近鉄ベンチは、3塁走者が走ると同時に打者がバントして1点を取りに行く、「スクイズバント」作戦を試みる。
しかし、江夏投手は、打者の石渡選手がバントの構えに入る動きを見逃さず、そのスクイズバントを見破り、打者から遠く離れた所へ投球。
何でもこなす器用な石渡選手だったが、その球をバントできずに、空振りする。
2球目のサインは、変化球のカーブ。
江夏投手が、そのカーブの握り方のまま、打者から遠く離れた所へボールを大きく外すことができたのは、本当に奇跡である。
このシーンが、この試合のクライマックス。
3塁を飛び出してホームへ向かっていた3塁走者の藤瀬選手は、石渡選手の空振りを見て3塁へ戻ろうとするが、途中でタッチアウトになる。
一時はノーアウト満塁という絶対絶命のピンチだった広島が、息を吹き返した瞬間だ。
9回裏、江夏投手の投じた19球目の出来事だった。
一転して広島、日本一へ
それでもまだ2アウト2塁3塁。
これから何が起こるかわからないと当時のわたしは思っていた。
しかし、一旦広島に傾いた流れは変わらない。
カウント2ストライクから、石渡選手は次の球をファール。
そして、その次の球を空振りの三振。
球種は、佐々木選手から三振を奪った球と同じ、右打者の膝下へのカーブだった。
この回、江夏投手が投じたこの21球目でゲームセット。
広島カープ、球団史上初の日本シリーズ制覇である。
優勝が決まった瞬間、江夏投手が、マウンドから駆け下りてきて、大きくジャンプ。
同じく駆け出して行った水沼捕手が、顔面のあたりで、江夏投手の腰を受け止めたのを思い出す。
奇跡の1球を生んだ理由
野球が好き、これが一番
ここまで、「江夏の21球」の記憶をわたしなりに振り返ってみた。
野村さんは、ドキュメンタリーの最後で、あの19球目を「江夏が12年間歩んできた、プロの投手としての過程が生んだ『奇跡の1球』」と評した。
また、「あの番組」を見終わった後、「大変なプレッシャーの中で力を出し切ることができたというのは、どういうことだったのでしょうか?」という森田アナウンサーの問いに、ゲストの江夏さんは、「やっぱり、野球が好きだ。投げることが好きだ。これが一番」と答えた。
大好きな野球ができた幸せ、今でも野球のことを語ることができる幸せ、それらをかみしめながら江夏さんは答えている、わたしには、江夏さんの姿がそのように映った。
衣笠祥雄さんのご冥福を祈ります
延長戦に備え、江夏投手の交代がスムーズにいくよう、ブルペン(投球練習場のこと、当時はファールグラウンドに設置されており、マウンドにいる投手からもその様子がよく見えた)で次の投手の準備を始めた広島ベンチ。
投手交代を考えているベンチに、怒りを感じる江夏投手。
そんな江夏投手を、冷静にさせたのは、1塁手の衣笠祥雄選手だった。
画面にも、マウンドに行き、江夏投手に話しかける衣笠選手の映像が映し出された。
今年(2018年)4月23日に71歳で亡くなられた衣笠さん。
あらためて、ご冥福をお祈りいたします。